以前の記事では、ドイツ語でヴィオラを意味する Bratsche という単語の語源を調べました。
その記事の最後に、「Bratsche」と聞くたびに思い浮かべるドイツ人ヴィオラ奏者がいる、と書きました。
今回は、その方についてのお話です。
………といっても、演奏の話ではありません。
私が今でも印象深く覚えているのは、その方が話した、たった一言なのです。
そのドイツ人ヴィオラ奏者とは、ヴィルフリート・シュトレーレ氏。
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団で長く首席ヴィオラ奏者を務め、現在も世界各地で演奏活動を続けていらっしゃいます。
実は私、以前、その来日公演を聴きに行ったことがあります。
その時が、私にとって人生初の室内楽コンサートでした。
当時の私は、「室内楽とは静かに演奏を聴き、静かに拍手をして、静かに帰るもの」だと思っていました。
ところが、演奏が終わると、シュトレーレ氏がおもむろに英語で話し始めました。
「えっ、しゃべるの?」
完全に想定外です。
こちらは英語を聞く心の準備など、一切していません。
それでも必死に耳を澄ませた結果、
Japan is my second home.
……そんな趣旨のことを話されていたのはわかりました。
正確な言葉は覚えていませんが、「日本は第二の故郷です」と笑顔で話してくださったことが、とても嬉しかったのを覚えています。
そして、その時の私は、もう一つ別のことに気づきました。
発音です。
流暢な英語の中にも、ドイツ語らしい響きが残っているように聞こえました。
とりわけ印象的だったのが Japan。
私の耳には、
「ヤーパン」
とはっきり聞こえたのです。
ドイツ語では J は「ヤ・ユ・ヨ」の音になります。
「おおっ!」
「ヤーパンだ!」
「ドイツ語だ!」
………いや、ヴィオラを聴きに来たんじゃなかったのか、私は。
考えてみれば、私は大学でドイツ語を学んでいたとはいえ、先生もゼミの仲間も日本人で、研究対象はドイツ哲学の書籍でした。
私にとってドイツ語は、ずっと本の中にある言葉だったのです。
実際にドイツ語を母語とする人の声を聞いたのは、おそらくあの日が初めてでした。
だからこそ、「ヤーパン」という響きが、今でも記憶に残っているのでしょう。
もちろん、そのコンサートの音色の美しさも覚えています。
……でも。
私の記憶に強く残っているのは、
「ヤーパン」
なのです。
当時はまだ、ドイツ語を学び直す前のことでした。
今になって思えば、あの日、本の中にあったドイツ語が、初めて人の声になった日だったのかもしれません。

