先日の記事にも書いた通り、岩手旅行の予習をしています。
行先の一つは、盛岡の原敬記念館。原敬は第19代内閣総理大臣を務めた盛岡の先人です。
今回は第71回企画展「原敬と司法省法学校の同窓たち」を見に行く予定です。
滞在時間も限られているので、少しだけ予習して企画展に臨むことにしました。
原敬は明治9年(1876年)、20歳で司法省法学校に入学しました。
原たち第2期生は8年制で、フランス語・フランス法を中心に学んでいました。
同じ第2期生には、陸羯南、加藤恒忠、国分高胤らがいました。
彼らはそれぞれ後の首相、新聞人、外交官、漢詩人になります……なんだこの学校。
ところが明治12年(1879年)、寄宿舎の食事をめぐる騒動に関わり、原・陸・加藤・国分らは放校となります。
この四人を中心に時系列を大まかに並べると、こんな感じです。
| 和暦 | 西暦 | その後のつながり |
| 明治9年 | 1876年 | 原・陸・加藤・国分らが司法省法学校で学ぶ。 |
| 明治12年 | 1879年 | 寄宿舎の騒動をめぐり、原・陸・加藤・国分らが放校。 |
| 明治16年 | 1883年 | 陸が太政官文書局へ。そこには原も勤務していた。 |
| 明治18年 | 1885年 | 原がパリの日本公使館へ赴任。 |
| 明治19年 | 1886年 | 原の斡旋で加藤が外務省に入り、パリの日本公使館勤務に。 |
| 明治22年 | 1889年 | 陸が新聞『日本』を創刊。国分も同紙で活動する。 |
| 明治36年 | 1903年 | 欧州を訪れた陸を、ベルギー公使となっていた旧友・加藤が迎える。 |
こうして見ると、別々の道へ進んだ後にも、意外と接点があります。
今回の展示で特に気になるのが、明治19年(1886年)9月30日付の国分高胤から原敬・加藤恒忠宛の書簡です。当時、原と加藤はパリにいました。
放校という共通体験が、その後の彼らの結びつきにも影響していたのでしょうか。
そんな仮説をつい立てたくなりますが、展示資料を見ながら確かめたいと思います。
そして、いつものようにこの先人たちにドイツとの接点はないかと調べたら、以下の通りちゃんとありました。
- 原敬は明治41~42年(1908~1909年)にエッセンやベルリンへ
- 陸羯南は明治36年(1903年)にベルリンへ(関連記事はこちら)
- 加藤恒忠も明治22年(1889年)にベルリンとライプツィヒへ
フランス語・フランス法を学んだ同窓生のうち、少なくとも三人が、その後それぞれ異なる事情でドイツにも足を運んでいました。
なぜ三人はドイツへ行ったのか。こちらはまた別の記事で調べようと思います。
出典・参考資料
- 盛岡市文化振興事業団ホームページ「原敬記念館 第71回企画展『原敬と司法省法学校の同窓たち』」
- 松山大学ホームページ「『松山大学の歩み』開講の趣旨」、「松山大学論集 第30巻 第 5 - 1号抜刷 2018 年 12月 発 行 加藤拓川資料集」
- 弘前市ホームページ「陸羯南」、「北の文脈ニュース 第73号 平成27(2015)年3月1日(日)」
- 高松亨明 著『陸羯南詩通釈』,津軽書房,1981.3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12502605 (参照 2026-09-15)
- 昭和館デジタルアーカイブ「原敬日記 第2巻」
