【青森とドイツ】陸羯南はなぜベルリンへ? 津軽英麿を訪ねた明治36年(1903年)の旅の背景

日本とドイツ

先日の記事にも書きましたが、今度、岩手を旅行します。

立ち寄れそうな場所を調べていると、原敬記念館で「原敬と司法省法学校の同窓たち」という企画展が開かれていることを知りました。

企画展の案内を見ると、知っている名前がありました。

陸羯南です。

現在の青森県弘前市出身のジャーナリストで、新聞『日本』を主宰した人物。原敬とは司法省法学校の同窓でした。

 

陸羯南には、私にとって少し印象深いエピソードがあります。

それは明治36年(1903年)のこと。羯南は欧米へ渡ります。

ベルリンで会った相手の一人が、津軽英麿(つがる・ふさまろ)でした。

英麿は近衛家から旧弘前藩主・津軽家へ養子に入り、その後継者となった人物です。長くヨーロッパに留学していました。

弘前市立郷土文学館の資料によると、羯南の渡欧には、英麿に帰国を促すという役目もありました。

なぜこの経緯を覚えているかというと、昔、羯南の渡欧について知ったときに、

「アラン・ドロン主演の映画『太陽がいっぱい』に似てない?」

と思ったのです。

映画は、裕福な家の息子を連れ戻すよう頼まれた青年トム・リプリーが、イタリアへ向かうところから始まります。

構図だけ抜き出すと、

  • 海外からなかなか帰国しない名家の青年
  • 青年の帰国を望んでいる周囲の人たち
  • 依頼を受けて海を渡る、もう一人の男性

……陸羯南、トム・リプリーでは?

もちろん、その後は全然違います。殺人も、身分の乗っ取りもありません。

羯南がしていたのは、もっと地道な仕事でした。

『津軽英麿伝』などで経過を追うと、羯南はベルリンで英麿に帰国を勧め、その後も日本側と電報で連絡を取り合っています。

日本側では英麿の旅程を確認し、船会社に乗船状況まで問い合わせていました。

英麿には帰国の意思も確認されていましたが、帰国時期はさらに延びました。英麿が日本へ帰国するのは翌明治37年(1904年)です。

 

では、英麿自身は、留学が長くなった事情をどう説明していたのでしょう。

明治35年(1902年)8月25日、兄・近衛篤麿へ送った手紙で、英麿は主な事情を三つ挙げています。

  • 法律に本格的に熱心になったのが比較的遅かった
  • ベルリン大学の試験が難しかった
  • 博士論文を書いていた

つまり英麿、ただ帰ってこなかったわけではありません。研究していたのです。

そして明治36年(1903年)、英麿はベルリンで日本の養子制度を扱った本を刊行します。

さらに、この本はフランスの学術誌で書評されていました。

書評者は、エミール・デュルケーム。

大学の授業で習ったフランスの社会学者です。まさか再びこの名前を聞くことになるとは思いませんでした。

……ここまでの経緯を知ると、『太陽がいっぱい』を連想してしまったこと、英麿には少し申し訳なくなってきました。

 

岩手旅行の予習をしていたはずなのですが、気づけば青森からベルリンまで来てしまいました。

この続きは、また後日にします。

 

出典・参考資料

  • 弘前市ホームページ「陸羯南」
  • 羽賀与七郎 著『津軽英麿伝』,陸奥史談会,1965. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2986800 (参照 2026-09-11)
  • 近衛篤麿日記刊行会 編『近衛篤麿日記』第5巻,鹿島研究所出版会,1969. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3001162 (参照 2026-09-11)
  • CiNii「Fusamaro Tsugaru, Die Lehre von der japanischen Adoption, Mayer & Müller, Berlin, 1903」
  • JSTOR「T. 8, 1903-1904 L’Année sociologique (1896/1897-1924/1925) Published by: Presses Universitaires de France」

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