先日、岩手県盛岡市の原敬記念館を訪ねました。以前書いた記事で予習した通り、目当ては第71回企画展「原敬と司法省法学校の同窓たち」。
この後は親戚との約束があったので、鑑賞時間は約40分のつもりでした。
ところが、企画展の内容が想像以上に面白く……。
企画展のタイトルにある「司法省法学校」は、明治政府が司法官を養成するために設けた官費学校です。
原敬は明治9年(1876年)に入学します。しかも、合格者104人中2番の成績!……入学試験で2番?
ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』の主人公、ハンス・ギーベンラートと同じだ!
Ich bin der Zweite geworden.(僕は二番になったんだ!)
ハンスが父親にそう報告する場面については、以前書いた記事で取り上げました。
おもしろいことに、原敬もハンスも、将来のエリートを養成する学校に進むため、選抜試験に挑んでいたんですよね。
ただの私の中での後付けの一致で、両者の学校の制度も目指す進路も違うんですが、なんだかおもしろく感じました。
当時20歳の原敬もハンスのように喜んだかどうかはわかりませんが、ともかく見事な成績で合格したわけです。
展示では、学校生活のちょっとした逸話や写真も紹介されていました。
故郷を離れて出会った学友たちとの、思わず笑ってしまうようなエピソードがある一方で、放校という厳しい出来事にもぶつかります。
明治12年(1879年)、入学から3年目のこと。原は寄宿舎の食事をめぐる騒動に関わり、ほかの学生たちとともに放校されてしまったのです。
ところが、物語はそこで終わりません。
原や同窓生の陸羯南、加藤恒忠らは、その後、新聞や政治、外交など、それぞれの道へ進みました。
特に原との関わりが深いと感じたのは、加藤恒忠。外交官であり、正岡子規の叔父としても知られる人物です。
加藤が外交官となるきっかけを作ったのは、先に外務書記官となっていた原であり、明治19年(1886年)、加藤は原とともにパリ公使館で働くようになります。
そんな二人に手紙を送ったのは、やはり同窓生の国分青厓。手紙では、渡仏する知人を紹介していました。
後年には、原が『大阪新報』の経営をめぐって加藤を頼ったことも紹介されていました。
昔の仲間が、仕事の場でも関わっていた。
最初は、友情が仕事上の協力にもつながったのだろうか、と思いました。
でも、旧知の間柄というだけで、大切な仕事を任せられるものでもありません。
相手の能力や経験への評価、仕事上の必要性など、さまざまな事情もあったのでしょう。
実際に原は何を重視したのか。同窓生たちにまつわる展示内容を見ていると、想像が尽きませんでした。
若いころに出会った人々が、それぞれの人生を歩みながら、ときに再び交わる。
まるで群像劇を見ているようでした。映画化しないものかなぁ。
……なんてことを考えながら悠長に鑑賞していたら、今回の岩手旅行の主眼である親戚との約束が迫っていることに気づきました。
ここで突然ですが、当時の私の心境をごくシンプルなドイツ語で作文してみます。
Takashi Hara oder meine Verwandten? …… Meine Verwandten.
(原敬か、親戚か?……親戚だ)
親戚を待たせるわけにもいかず、私は急ぎ足で原敬記念館を出ました。
1分遅刻しました。
展示室の広さから、40分あれば十分だと見積もっていたんだけどなぁ。
展示室の面積と、展示物が引き起こす好奇心の量は、比例しない。
そんなことを思い知った日でした。
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出典・参考資料
- 原敬記念館『原敬研究資料〈78〉原敬日記を繙く』第71回企画展「原敬と司法省法学校の同窓たち」
- 盛岡市ホームページ「原敬記念館 第71回企画展『原敬と司法省法学校の同窓たち』」
